答えてくださった方日本映画原点の地・立誠 委員長 諸井誠一さん
ここ元立誠小学校は「日本映画原点の地」です。1895年にフランスのリュミエール兄弟が映画装置・シネマトグラフを発明し、それを日本の実業家・稲畑勝太郎が輸入すると、当時京都電燈株式会社だったこの場所で1897年に試写実験が行われました。1928年には立誠尋常小学校(後の立誠小学校)が移転開校され、多くの子どもたちで賑わいました。1993年に残念ながら閉校しましたが、閉校後もしばらくはイベントスペースや特設シアターとして地域に根付いた方法で利用されてきました。現在はホテル「立誠ガーデンヒューリック 京都」として、1927年当時の校舎がそのまま利用され、地域はもちろん、ここを訪れる多くの方から愛されています。
私の実家は、昔河原町商店街にあった天ぷら屋で、幼い頃、店先にはいつも映画の招待券が積まれていました。父親も築地生まれでわざわざ新橋から横浜まで映画を観に行くような映画好きでしたが、その時は「映画」を見ているだけで詳しくもなく、私自身が映画に関連するボランティア活動を行うようになったのは、わりと最近のことです。実は、自分が立誠小学校の卒業生でありながら、その場所が「日本映画原点の地」であることも長らく知らなかったくらいです。自分の子どもが成長する過程で、少しずつ町内の活動に携わるようになり、そこでたまたまシネマトグラフの話が出たんです。ここから興味を持って元立誠小学校の土地の歴史について調べるようになり、学校統合で行き場を失った他地区の昔の写真をはじめとする資料をもらってきたりして、気が付けば立誠学区に関する多くの貴重な写真が手元に集まってきました。
せっかく集めた資料を再び散逸させることなく、記録として残しておきたい。そんな想いから、約3年の歳月をかけて情報を整理し、立誠小学校開校150年の節目である2021年にヒューリック様にもご協力いただいて出版することにしました。
京都には現在も2つの撮影所がありますが、昔は二条城の近くや下鴨にも撮影所がありました。二条城の撮影所は京都で最初に建てられ、「日本映画の父」といわれる牧野省三監督が『忠臣蔵』を撮影した場所でもあります。私は、2011年に京都で開催された「第26回国民文化祭・京都」で映画を上映することになった際、この『忠臣蔵』を上映作品として推薦しました。その時、何のコネクションもない中、牧野監督のお孫さんである俳優・津川雅彦さんに手紙を書き、上映会に来てほしいとお願いしたんです。すると津川さんは「ノーギャラでいい」と言って快く引き受けてくださり、本当に上映会に足を運んでくださいました。
この出来事をきっかけに、私はここ元立誠小学校を拠点に、京都を「映画の街」として盛り上げるため、やれることは何でもやろうと取り組んできました。下手な文字でも丁寧に想いを伝えれば必ず届くと信じ、山田洋次監督にも手紙を書いて自分達の活動を見に来てほしいと伝えたところ、多忙なスケジュールの合間を縫って立誠小学校まで足を運んでくださいました。私の名刺のデザインも、この時山田監督にいただいたアイデアを元にしています。
これまでも校舎をシアターにして無声映画の上映を行ったり、「京まちなか映画祭」に企画を持ち込んだりと、思いつくことは何でも挑戦してきました。しかし、映画を上映するにはフィルムや映写機のレンタル料をはじめ、色々とコストがかかります。またテレビで気軽に映画が観られるようになった現在では、旧作を有料で上映するだけでは売上げが立たないのが現実です。
そもそも、近年は映画鑑賞人口自体が大幅に減ってきてしまっています。そこで私自身、どうすれば映画文化を後世に残していけるかを考えて続けてきました。結論としては、今後はアニメと一緒になって映画を盛り上げていくことも大切なのかもしれないと思っています。最近の世の中の動きを見ていると、アニメは多くの人に受け入れられ、また話題性に富んでいます。昔ながらの映画文化を知っているので、新たなものを取り入れることは少し寂しいとも感じますが、アニメが映画文化を現代に合う形に変えていく一つの起爆剤になってくれたらいいな、と考えるようになりました。
それと同時に、古い映画の保存や振興に個人の力だけで取り組むには限界があるため、もっと府と市、ひいては文化庁も一体となって、日本映画をいち文化として盛り立てていく必要があると感じています。京都映画賞にも賞の授与だけでなく、映画人口を増やす何らかの取り組みを期待しています。観る人の間口を広げることはもちろん、映画を作る人のサポートにも力を入れてもらいたいですね。
・団体名:日本映画原点の地・立誠
・所在地:京都市中京区蛸薬師通河原町東入備前町310-2