京都映画盛り上げ隊!
♯8「おもちゃ映画ミュージアム」太田米男さん、太田文代さん

答えてくださった方おもちゃ映画ミュージアム 代表 太田米男さん、理事 太田文代さん

京都には映画人の「基地」となる場所が必要

太田米男(以下、「太田(米)」) 1960年代はテレビ放映が本格化し、1971年に『羅生門』や『雨月物語』などの名作を作ってきた大映株式会社が倒産するなど、映画の衰退期ともいえる時代。京都は自他共に認める映画の街でありながら、その実状は製作される作品のほとんどが東京資本であり、映画人が集うセンターやアーカイブ、映画博物館のような機構も組織も京都には存在しなかったため、映画の原版をはじめとする貴重な資料類が散逸してしまっている状態でした。

当時私は、京都市立美術大学が芸術大学になり、始まったばかりの研究ゼミで映像について学んでおり、そうした状況について危機感を抱いていました。この「おもちゃ映画ミュージアム」を立ち上げようと思ったのも、京都の映画や映画人にとって基地となる場所が必要だと考えたことと、次世代の人たちに映画の原点や原理を知って貰いたいと考えたからです。

アーカイブ事業の必要性を広く伝えたい

太田(米) 映画は原版さえ残っていれば、そこから映写用フィルム(コピー)を作ることができます。ところが今残っている映画はほとんどが映写用フィルムのみで、原版(ネガフィルム)の多くがセルロイド製であったために危険だというので廃棄されました。推定で約1万5000本を作ってきた京都の映画は、すべてが散逸し、現在京都に唯一残っているネガ原版は、京都府が所蔵する『祇園祭』の1本だけです。長らく映画の原版を保存する必要性も意義も見落とされてきました。

おもちゃ映画ミュージアムでは、映画の原理が分かる光学玩具(アニメ玩具)や写真、幻灯機、そして、上映後に短く切って家庭用に販売された「おもちゃ映画」と呼ばれたフィルムや、それを見るための玩具映写機などを展示し、サイレント映画の断片や小型映画フィルムの保存と復元を行っています。お客様には、そうした展示品や古い動画を楽しんでいただきながら、日本の映画の歴史にも目を向け、関心を持って貰いたいと思っています。

劇映画だけでなく、記録映画や教育映画、ニュース映像や漫画映画、アマチュアが撮影した小型映画の映像もあり、それらは断片であっても当時を知る視覚文化遺産として貴重です。ただ、このような原版や資料類を残すようなアーカイブ事業を個人で行うには限界があるため、日本映画や映像保存に関心がある人々の賛同を集めながら、いずれは市や国といった大きな組織を動かすきっかけになればと考えています。


館内には代表の米男さんが集めた機材や寄贈された資料類が所狭しと並んでいる


日本独自のメディア、紙フィルムと映写機。1932年に考案されたが、戦争激化に伴い、1938年国内向け金属玩具の製造が禁止され、短命に終わった

娯楽?教育?映画の役割とは

太田文代(以下、「太田(文)」) 海外では映画を教育や文化として捉え、行政が支援している国もあります。その影響もあるのか、おもちゃ映画ミュージアムに来てくださる外国の方たちは、小津安二郎や溝口健二、黒澤明をよく知っていて、初対面でも話が盛り上がることが多いです。日本映画が特別好きな方ももちろんいらっしゃいますが、幼い頃から一般教養として世界の名作を観て育ち、その一環で日本の著名な監督を知っている方もいて、素晴らしいなと感じています。

日本では、新聞などのメディアで娯楽として映画が取り上げられることはあっても、芸術文化の教養として取り上げられることはほとんどありません。テレビが台頭し、映画が斜陽となった時期にヤクザものやポルノ映画が多く作られたことも要因の一つかもしれませんが、京都を映画の街として盛り立てていくのであれば、もっと映画の教育的な側面に目を向けることが必要ではないでしょうか。


館内にある世界地図には訪れた方々の母国がピンで記されている

アジア映画を根底で支える日本の‟古典”

太田(米) 新しい情報を得ることももちろん大切ですが、小津安二郎や溝口健二、黒澤明というのは言わば映画の古典であり、映画を知る上で大切な教科書です。私は映画を娯楽と教育、新しさや古さで区別するのではなく、もっと包括的に捉える必要があると考えています。以前韓国で行われた青少年映画祭(現・アジア国際青少年映画祭)の窓口をやらせていただいた際に、関係者が戦後の日本映画をよく勉強していることに驚かされました。

戦後の荒廃した時期にあっても、映画人たちは創意工夫、切磋琢磨しながら名作を次々生み出し、世界を驚かせます。1950年代は日本映画の黄金時代でした。映画を通して日本文化が注目され、被写体となった文化財や景観がやがては観光資源になります。日本が観光地としてブームになっていく背景には、日本映画の貢献があったのです。韓国や中国が国を挙げて映画を盛り立てているのは、少なからず戦後日本の映画界のありようを参考にしているからと推察しています。

人との出会いから生まれる展覧会

太田(文) おもちゃ映画ミュージアムで行っている展覧会や催しのほとんどが、ミュージアムを訪れた人とのコミュニケーションの中から生まれたものです。お客様が海外の人であれば母国のことであったり、日本人であれば住んでいる地域や仕事のことだったりをお聞きしながら、少しずつその人の想いや人生を引き出していき、どこかで自分の感性と響き合う部分があれば「うちで展示してみない?」とお誘いすることが多いですね。

現在は「友禅染めの着物で“映画”をまとう~初期映画と染織に尽力した稲畑勝太郎にも触れて~」と題した展示を行っています。シネマトグラフを日本に持ち込み、日本で初めて映画興行を行った稲畑勝太郎(15歳で京都府派遣留学生として渡仏。リヨン留学時の友人にオーギュスト・リュミエールも。彼の地で最新の染織技術を学ぶ)に関する貴重な資料や、メディアアート・視覚文化研究者の草原真知子早稲田大学名誉教授が20年以上かけて集められた貴重な着物や帯が揃いました。映画で使うカメラや映写機、女優さん、人気のアニメーションなどが描かれた珍しいもので、そのほとんどがおそらく京都で染織されていたものだと考えられています。

無名も著名も、映画を通して伝えていく

太田(文) 今後もフィルムや資料の寄贈や提供は受け付けながら、保存・修復事業は続けていくつもりです。一方で借家契約が来年3月末で満了を迎え、個人での施設維持が困難なため撤去も視野に入れ、今後どうするか思案中です。それまでに行える展示はどんどんやっていこうと思っていますし、今後もどこか場所を借りて展示ができればと考えています。

今後の構想としては、東映で40年以上に亘り述べ2000人以上の出演者の身体に刺青を描いていた方を研究した資料の展示や、大映時代のスチール写真の展示など、また、どこか大きな場所を借りて実現させたい催しとして、1926年公開、尾上松之助最晩年の『忠臣蔵』を再現したペン画に、活弁と生演奏をつけて披露する構想もあります。ペン画は当時15歳だった熊本の無名の少年が描いたもので、これが素晴らしく上手なのです。そういった大きな美術館では企画として取り上げられないような資料が人とのご縁で集まってくるところも、このおもちゃ映画ミュージアムのいいところだと思っています。


Information

・施設名:おもちゃ映画ミュージアム 一般社団法人京都映画芸術文化研究所
・所在地:京都市中京区壬生馬場町29-1
・TEL:075-803-0033
・E-mail:info@toyfilm-museum.jp
・公式サイト https://toyfilm-museum.jp/